ピカッと光ったかと思うと、間髪を入れずに激しい音がして、目が覚めた。ベッドからすべりおり、居間に向かう。テレビとコンピューターのコンセントを抜いた。落雷が、ばりばりと夜空に鳴り響く。

 思い出したことがある。小学生のころ、妹と留守番をしていると、窓の外が急に暗くなり、雷が鳴り始めた。妹が泣きそうにしている。私は押入れからあわてて蚊帳を引っぱり出し、八畳の真中に蚊帳を吊るした。二人で中に入り、雷が止むのを待った。昔は網戸がなく、蚊取り線香と蚊帳は必需品だった。寝る前に蚊帳を吊るすのは、子どもの仕事と決まっていた。朝から重い蚊帳を畳むのが面倒で、嫌々ながらやった。

 お風呂を沸かすのも、子どもの役目だった。立田山の近くで遊んで家に帰る道すがら杉の小枝を拾い集めた。乾いた杉の葉はパチパチとよく燃えて、お風呂の焚きつけに役立った。当時のわが家のお風呂は、五右衛門風呂だった。釜のまわりをタイルで塗りこめた様式で、年数がたつうちにタイルにひびが入り、漏り出した。水が漏れば薪がくすぶる。煙がもうもうとたちこめる中で、涙を流しながらお風呂に入った記憶がある。燃してくれる母も、前かけで口元を覆い、目をしょぼしょぼさせていた。昔の家はすき間だらけの木造だった。二酸化炭素中毒の心配はあまりなかった。

 今は、アルミサッシの家が多いので、気密性がある。閉め切って冷暖房を入れて生活していると、お隣近所の音があまり聞こえない。道を一つ隔てた隣の家に、夕方ごろ泥棒が入ったことがあるが、全然気づかなかった。被害があったことさえ、何ヶ月かたって耳にした位だ。

 しかし、聞こえる音もある。二年ほど前に、裏手の借家に若い家族が住んでいた。小学一年生の男の子と幼稚園児の女の子がいた。昼間は、働き者らしい奥さんの内職のミシンの音が聞こえた。夕方、四人で食卓を囲む時間になると、時折、ご主人のどなり声がうちにも飛んできた。どうも男の子を叱りつけているらしく、子どもの泣き叫ぶ声と、「片づけろ」「泣くな」という大声が聞こえた。どんな悪いことをしたのだろうか。「代りにあやまってあげたい位」と娘も言う。不思議と奥さんの声は聞こえず、次の日道で会っても笑顔で挨拶してくるので、何も聞かずじまい。町内の行事にも積極的に参加してくる家族だった。短期間で引っ越していった。

 私たちも、子どもが小さい時は大声で叱ったりした。近所にさぞかし迷惑をかけたことだろう。子育て中は、体裁など考えている余裕はなかった。何が原因で怒ったか忘れたが、ふとん叩きを掴んで、長男を近所中追っかけまわしたこともある。足が速くてつかまらず、途中で私の方があきらめてしまったが。

 育児を振り返れば、反省することばかりである。特に長男と長女には申し訳ないことが多くて、謝りたい程である。次女の時は、心のゆとりが出てきて、少しはましな育児ができた気がする。

 なにしろ子育て中は、夫も働き盛りで忙しかった。家のことを構っている暇はない。中学校教師である夫は、勤務が終わっても、部活動やサークル参加で毎日帰りが遅かった。たまに早い日があると、後に客を引き連れての帰宅だった。今のようにコンビニなどない時代である。冷蔵庫の中を何度ものぞき、ある物でなんとか料理を作るしかなかった。結婚してしばらくは、農家の庭に建てられた借家に住んでいた。大家さんが植えてくれたなすびやにらが、不意の客の時大いに役立った。

 三十年以上前、当時は学生時代から麻雀が盛んだった。頭数がそろえばすぐにゲームが始まった。興じながら、教育談義をかわすのが、彼らの楽しみの一つであった。とは言え、夜遅くまでジャラジャラやるので、たまらない。ほどよい時間になると、私は耳に栓をして、子どもたちをかかえるようにして眠った。

 夫の母がまだ生きていた頃、八幡に遊びに行くと、義母が言うのである。
「和子さん、おかしいんよ。裏のうちで、夕方になると、ジャラジャラあさり貝を洗う音がするんで、よっぽどあのうちは貝汁が好きなんて思うとったけど、この頃わかったんよ。あれは麻雀をしてたんよ」

 夫はあさり貝の味噌汁が好きである。あさり貝を洗う時、いつも義母のことばを思い出す。
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