第1回
 祖母は祖父との生活の中の5年間、家を出、そして又帰ってきた。その中の1年間は夢のように楽しい生活だったと私に語る。夫を我が子を置き去りにし、夢を食べて、又帰ってくる。
 それが最高の喜びだったと、孫に語れる人―祖母が私の前にいる。祖母の心の宇宙を知りたい。そうこのごろ思うようになった。
 
 思い出の中の祖母は同じ布団にはいって童話を読んでいる。優しい顔をしている。
 私が小学校1年生の時に父母が結核で入院し、祖父母と私と妹の4人の生活が1年半ほど続いた。幼い私達の淋しさをまぎらわすためだろう。夜、眠る前のわずかな時間、祖母は毎日童話を読んだ。<小公子><アルプスの少女><アンデルセン童話集>…
 今でも覚えている。
 小学校1年生の運動会の日のことも鮮明に覚えている。私は仲良くお弁当を食べている親子連れのそばを、祖母が見つからなくて泣きながら走った。祖母と出会った時は昼の時間も半分過ぎていた。祖母も探したのだろう。汗でびっしょりの安心した顔が浮かぶ。
 たくさんの思い出の中で、私はだんだん大きくなり友達との世界が大切になり、祖母は少しずつ老いていった。
 結婚を決めた時、いちばん喜んだのも祖母だが淋しそうな顔をしたのも祖母だった。
 そんな祖母を連れて阿蘇の温泉に2泊した。祖母とふたりだけでゆったりとした時間を過ごしたかった。温泉にはいり食事をしながら酒を飲んだ。
「ばあちゃん、幸せ?」
 突然にそう聞いた。
「ああ幸せたい。皆からようしてもろうてね。… 折尾で1年あん人とも所帯が持てたし、もう思い残すことはなんもなか」
 祖母の目は遠いところを見ている。夫も息子もなにもかも捨てて飛び込んだ男の人のことを思い出しているのだろう。1年という言葉が私の心につきささる。
「ばあちゃん5年でしょう。1年じゃなくて」
「あん人と暮らしたのは1年たい。あとはひとりで住み込みで働いとった。1年ばってん夢のごたる生活だった。なんもかんも夢のごと過ぎてしもうた」
 祖母はそれきり黙った。
 もっと話して、私も大人になったんだから聞かせてと言ったのだが、祖母は笑って、
「忘れてしもうた。何もかも忘れてしもうたたい」微笑みながら答えた。 (つづく)
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