Vol.12 <夕日>[2005.10.13]
秋といえば○○。いろいろ思い浮かぶでしょうが、夕日もそのひとつ。私の在熊中の記憶にとりたてて夕日のシーンはありませんが、熊本は西に海が広がっていることもあり、“サンセットライン”と愛称される天草下島西海岸沿いの国道389号をはじめ、玉名郡長洲港、八代市球磨川河口など、夕日がきれいなスポットがいくつもあるようですね。大阪のある団体が選定を進めている「日本の夕陽百選」にもいくつかが挙がっています。
●「日本の夕陽百選」は http://www.area-best.com/yuhi/index2.html

自然の美しさに敏感な日本人は、夕日にもことのほか心を動かされてきました。文学・演劇・芸能、そして童謡・演歌などには、夕日や夕焼けが主題や背景となって数多く登場。あの国民的映画「男はつらいよ」でも、山田洋次監督は全シリーズに必ず夕日のシーンを入れたそうです。また芭蕉の句には、五月雨を集めるだけでなく夕日を入れる最上川もあったようで、「熱き日を海に入れたり最上川」と河口の雄大な景色を詠んでいます。最上川と同じく日本三急流の球磨川の河口の夕日も、きっと、そんなスケールの大きなものなのでしょうね。

なぜ、夕日に心を揺さぶられるのか。とにかくきれいだから。非日常性と壮大感がたまらないから。やがて明日につながる再生のイメージだから。と、感じ方は人それぞれでしょうが、昔の人は夕日に極楽浄土を重ねました。平安時代のことですが、日想観(“じっそうかん”とも“にっそうかん”とも読む)といって、沈む夕日を拝みながら西方十万億土にあるという浄土の姿を観想し、極楽往生を願う信仰が盛んになったのです。

この「日想観」の中心的存在だったのが、大阪の四天王寺です。今も春と秋のお彼岸の中日に執り行われます。このコラムにも何回か登場した同寺は、日本を仏教国家にした立役者、聖徳太子が建立。今、周囲はビルですが、昔は西にすぐ海が迫り、いかにも浄土を連想させる風景が広がっていたとか。このあたりの地名が「夕陽丘」になっているのも、夕日の名所だったからです。

聖徳太子といえば「日出ずる処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙なきや」のあの有名な国書。これに隋の煬帝は激怒したそうで、その原因は、隋を“落日斜陽の国”のように表現したからといわれてきましたが、最近の学者さんの説では、煬帝は「天子」は世界に自分だけなのに未開の倭国の者が同じく天子と名乗るとは何事か、「致す」だのと対等の立場で物を言って生意気だ、ということで激怒したそうです。今日の外交関係者も脱帽の“太子の毅然たるスタンス”はさておき、単に地理的な形容としてお日様のことを持ち出したというわけですね。

ところで、この四天王寺に、前回コラム「古代ロマン」で取り上げた「大王のひつぎ」となる“阿蘇ピンク石”があり、なぜ、いつからあるのか謎とのこと(詳しくは前回紹介の「読売新聞の特集ページ」)。で、門外漢の私の勝手な連想ですが、大和王朝の時代に西方浄土の思想があったかどうか知らないものの、隋の手前、倭国の西の果ては有明海。大和のやんごとなき人々にとって、夕日の如く美しい色をした阿蘇ピンク石は、西方浄土からやってきて西方浄土へと来世を導いてくれる、ありがたく尊い石だったのかしら、などと思い巡らせたのでありました。

●写真左が、お彼岸の中日(9月23日)に行われた「日想観」。この極楽門(西大門)の先に石の鳥居があり、春と秋のお彼岸の中日、年2回だけ、鳥居の真ん中に夕日が沈みます。それを拝み、お経を唱えながら極楽往生を願うのですが、中央に座す導師の前で僧侶たちが対面して並ぶ周囲を、参詣者が囲んで一体感いっぱいに唱和。とてもフレンドリーな日想観でした。撮影が拙くて肝心の夕日が写っていません。下記の大阪日日新聞のサイトに、この極楽門を少し出たところから撮影し、夕日も石の鳥居もきれいに写った写真があります。
http://www.nnn.co.jp/dainichi/news/200509/news0924.html
●写真右は、お彼岸の最終日(26日)に同位置で。もうお日様は石の鳥居の真ん中に落ちることはなく、きれいな夕焼けが広がっていました。こっちはなんとか夕焼けも石の鳥居もわかっていただけるかな? それにしても「先の両脇の高いビル、ちょっと避(よ)けてんか!」と声を上げたくなりますね。