Vol.29 <学校(3)>[2007.7.6]
●いまどきの子供の「言葉力」

日曜夜、TBS系列で放送されているバラエティ&クイズ番組「さんまのスーパーからくりTV」(大阪は毎日放送ですが、熊本は熊本放送ですよね)に、日本全国の幼稚園を訪れ、子供に「熱中していること」を聞いてまわる「からくり熱中少年少女スカウトキャラバン」というコーナーがあります。そこでは、語彙や語尾などの話しぶりが大人のような子供がよく登場し、笑いを誘います。オモロイ子を放映するのが番組の趣旨でしょうから、結果的に(意図的に、というべきか)そういう子供が多く登場することになるのでしょうが、いずれにせよ、情報洪水の世の中で、大人口調を自然に体得する子供が、やはり増えているのでしょう。

一方、雑誌「新潮45」6月号で、「日本語崩壊! 壊れゆく『普通の子供たち』」を読み、驚愕しました。著者は、兵庫県で全人教育を基本とした塾を運営する正司昌子さん。日頃接する0歳から7,8歳位までの子供の語彙数の減少傾向が、加速度的に進んでいるというのです。数は数えられても「いくつ」の意味がわからない。「真ん中、反対」や「そこ、ここ」もわからない。「どっちが多い?」と聞かれ、「どっち」あるいは「多い」がわからない子、両方がわからない子がいる。「聞く力」も年々低下し、そもそも「聞く姿勢」ができていない。正司さんは、「母国語獲得のシステム崩壊」が起きているとし、その原因は、授乳時の母親のテレビ視聴(最近はメールも)にあると考察しています。なぜなら、赤ちゃんの言語獲得は、おっぱいを飲みながらお母さんの語りかけを聞き、口元を見て発音の仕方を覚えていくことから始まるのに、お母さんの顔は、赤ちゃんではなくテレビや携帯電話に向いていることが多いからです。

言語という観点から見ると、妙に大人びた子が増え、異様に未熟な子も増えている、というのが現実なのかもしれません。

●メディア創造力

さて、熊本市立飽田東小学校の前田康裕先生は、「メディア創造力」をテーマに、言語教育・情報教育としての国語教育に取り組んでいます。「文字や映像を含んだものはすべてメディア。それは“意志”を伝え合うものであり、人と人の間に入って双方を結びつけるもの。その意志を形作るのが“言葉の力”であり、“思考力”である」とし、だから「メディアを創造するということは、意志を形成することであり、相互に作用しながら子供たちの思考力と人間力を高めるもの」と言います。

なるほど、「しっかりと文学作品を読み、深い解釈をする」とか「自分の生活を見つめて、生活作文を書く」といった従来の国語教育も必要でしょうが、新聞やテレビ番組などをつくるという前田先生のメディア創造の実践も重要。解釈力や作文力の基礎形成とその能力向上に有効です。母国語獲得システムが危うくなっているという現実もあることを考えると、なおさら大事なことだと思えます。

●学校の先生の「術」

また、前田先生は、今後の課題の一つとして、「教師生活の中で培ってきた『術』――『授業術』『仕事術』『学級経営術』『保護者対応術』などを整理したい」そうです。先生によると、「術」には「技術」と「芸術」があり、教育にはどちらも必要とのこと。「教育技術が高くないと、授業は成立しない。しかし、教育には芸術的な側面も多くあり、芸術家と鑑賞者が一体となって作品に価値を生み出すのと同じように、授業者と学習者が一体となって授業に価値を生み出す営み」だというのです。

「教育技術はマニュアル化が可能。しかし、マニュアルは必要条件ではあっても十分条件ではない。芸術としての教育活動には終わりはなく、ピカソがそうであったように常に進化していく教師が良い教師なのだと思う。これにはマニュアルはない。進化・発展していく教師と子どもの格闘そのものだから」。

そして、「教育技術を低く見ている人にはその必要性を、逆に教育技術を金科玉条のごとく考えている人には、芸術としての授業の深さを知らせたい」「そのことによって、“自ら考える教師”が増えてくる」ことを願っています。著書も多く、教育現場のオピニンオンリーダー的な活動をされている前田先生ですが、そんな「術」がいずれ、まずは先生のブログ「授業研究空間」から発信されることでしょう。
http://jugyoukenkyu.cocolog-nifty.com/kuukan/

●コミュニケーション能力

ところで、現代社会でとかく問題視される“マニュアル人間”ですが、先の「母国語獲得のシステム崩壊」について警鐘を鳴らす正司さんは、「やがてマニュアルさえ読めない、読めても理解ができない若者が続出するのではないだろうか」とも述べています。実際に工場で、機械の前に掲示された注意書きにある「差異」という言葉の意味がわからずに事故を起こした若者もいるそうです。現在の若者については、こうした語彙力の低下と共にコミュニケーション能力の低下がよく指摘されます。語彙力とコミュニケーション能力は、その人の性格も関係するので必ずしも一致しないでしょうが、基本的にはセットのもの。母親の授乳時テレビ視聴は、赤ちゃんからコミュニケーションの第一歩も奪うことにもなるのではないでしょうか。

大阪の羽衣学園高等学校の米田謙三先生が大事にしているのが、コミュニケーション能力です。「近年、プレゼンテーションが重視され、教育現場ではプレゼンのためのプレゼンの練習に焦点が置かれているが、実社会でプレゼンが効果を持つためには、基礎となるコミュニケーション能力の開発が前提」といいます。その思いが、国境・教科を越え、校種などいろんな垣根を取り払い、さまざまな分野の人が関り合いながら行うボーダーレスな授業実践に表れているのでしょう。

米田先生は、「小学生との交流からも、多くことを高校生は学んでいる」とし、そうした交流が情報技術を活用することで飛躍的に広がっているのですが、「一番大事なことはヒューマンネットワークであり、面と向かい合ったコミュニケーション」だと強調しています。2学期からは演劇人も巻き込んだプレゼンテーションの授業も行うそうで、さらに世界を広げ、どんなコミュニケーションを繰り広げるのか、興味深いですね。

産学連携授業の大阪地区代表・全国推進委員として活動し、企業の方とお話しする機会も多い米田先生。「企業側は、口をそろえて、自己表現だのプレゼンだのコミュニケーションという能力を学生に求める。特に、あたかも学校教育が全くそれをやってくれないかのように語られることにギャップを感じる」といいます。確かに社会性を重視する高等教育の現場も増えています。その一端を、羽衣学園中学校・高等学校のホームページから垣間見ることもできます。
http://www.hagoromogakuen.ed.jp/


いくら時代が変わろうが子供は子供。とはいえ、社会が劇的に変化する中では、子供は想像できない変わりようも見せます。最近では「モンスターペアレンツ(学校に理不尽な要求を突きつけてくる保護者)」といった困った親も問題になっています。現代の教育現場の難しさの一面ですね。

一度に“さまざまな”“多くの”子供とかかわる学校の先生。それを毎年繰り返し、先生は数え切れないほどの子供たちと出会います。しかし、子供たちから見たら、その折々に出会える先生は、その先生一人しかいません。それが、学校の先生という職業の責任の重さでもあると思います。もちろん、その重さには、多くの子供の成長にかかわり、その子らの生涯の思い出に残ることの喜びも付随しているのでしょう。

今回、お忙しい毎日の中、メールコミュニケーションにご協力くださった前田先生、米田先生に感謝の気持ちを込めて、そしてまた、今、頑張っている多くの学校の先生方へ応援の気持ちを込めて、フラワーアレンジメントを掲載させていただきます(あ、これ、私が主宰する「花あそび教室」の教材から選択したものであり、今回わざわざアレンジしたものではありません。お許しを)。特色あるさまざまな草花をたくさん集めた小品です。