第8回
 約束した銀行へ向った。
 信号が赤になったので立ち止まった。このスクランブル交差点を渡り切った所に銀行はあった。よく見ると銀行の前に夫と義父母の三人が立っていた。夫が紙袋を持っている。あの袋にお金が入っているのだろう。
 義父母が小さく見えた。何度か瞬きをしてよく見たが、やはり最初に視覚が捉えた姿に変わりはなかった。
 夫は身だしなみを整える余裕がないのか、背広の後の襟が内側に入り込んでいた。
 やがて信号が青になった。でも渡れない。三人の姿を近くの立て看板の所へ逃げて行き隠れて見ていた。恐喝した訳でもないのに両手の位置が定まらず、意味のない動きを繰り返した。トイレに行きたくなったりして落ち着かなかった。
 また信号は赤になった。助かった。この間に、今度青になったらこの交差点を渡ってやろうと、熱いシャワーを浴びるように奮い立たせた。
 青になった。進んで行った。これはデモンストレーションだと、自分に言い聞かせ勇ましく歩いて行くと、近づいた玉枝に三人は頭を下げた。夫も軽くだが頭を下げたのだ。こんな事は結婚前にはあったが、結婚してからは有り得ない事だった。そこへ紙袋を渡された。得意になった。
 街を通る人達は紙袋の中味が何なのか、そしてそれをどうして玉枝が受け取ったかを知らない。そ知らぬ顔をして通り過ぎて行く。それが愉快でならなかった。
 秘密を秘めている事は気味が良く、無表情でいるなんてとても出来なかった。だからいやらしい笑いをたっぷりした。
 なのに家に帰って札束を並べても、何の感慨も浮かばなかった。花火をしようと火を点けてもシュッと勢いよく火花が走ってくれない時のようで、溜息が出そうなくらい空しかった。
 次の日、昨日引き出した銀行へ全額入金した。
 あの家の荷物を、我が家となったこの家へ運んだ。ついでに標札を埋めた所をまた掘って結婚指輪も埋めてきた。誰かに掘られて見つけられて捨てられるかもしれない。大雨で流され、行方知れずになるかも知れない。でもずっとそのまま仲間とも言える土と年々形を変えながら生き続けるかも知れない。夫が見つけてあめ玉みたいに口の中をゴロゴロ転がすおもちゃにするかも知れない。どれを期待しているのかよく分からなかった。
 藤椅子を処分しないので母の機嫌は悪く、軽い酒盛りをする回数もめっきり減った。代わりに町内の老人会のお友達の出入りが頻繁で、縁台に集まりそれから家の中へ流れ、賑やかな茶話会が繰り広げられた。だから母が屈折したり、明日が来て欲しくないなんて、思っている様子は見られなかった。
 茶話会では玉枝の事が話題になるらしく
「これからよ」
 とか
「今度はいい男見つけるのよ」 
 とか
「下着はいいのを付けとくのよ」
 と、老人会の母のお友達は明るく飛ばして来る。
「はい」
 と答えた方がより明るくなれそうなのでそうする事にしている。だから時々やって来る兄のお嫁さんの滞在時間は、相変わらず短くて間に合ってしまう。(つづく)
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